午前中、タンペレの街を探訪。
行きたかったのが、このタンペレにある世界で唯一のレーニン博物館。ロシア革命の立役者レーニンの博物館がフィンランド、それもタンペレにあるのは不思議に思えるでしょう。レーニンはロシア革命の前夜、ほぼ2年間にわたってフィンランドに亡命して身を隠し、フィンランドからロシアの政治情勢について情報を得たり、指示を送っていたりしたのです。この時期、フィンランドは形式的な自治は与えられていたものの、ロシア帝国の植民地だったらからです。ここからサンクトペテルブルグまでは5時間ちょっとで鉄道が結ばれています。2月革命でケレンスキー内閣が成立し、レーニンはいったんロシアに帰りますが、そこで社会民主主義政権と対立。ふたたびフィンランドに亡命し、さらにスイスにいた時期に10月革命でペテルブルグに戻るのです。このときの凱旋コースの終点がフィンランドとペテルブルグを結ぶフィンランド駅で、この駅頭で革命的演説をしたことで知られています。エドマンド・ウィルソンの『フィンランド駅へ 革命の世紀の群像』が「フィンランド駅」を題名にしていのはこのため。とりわけレーニンが革命への決意表明を行い、『国家と革命』などの著作を書いたのがタンペレで、ここに多くの活動家が集まってはまた散っていきました。レーニンとスターリンが初めて会ったのもタンペレであったそうです。
それにしても宗主国の革命家の博物館を建てるのは奇妙に思えますが、レーニンはフィンランドの独立を約束し、ソビエト政府が成立後に実現しています。その意味でフィンランドにとって、植民地宗主国の政治家ではあるものの、独立の約束を果たした恩人でもあるのです。もっとも、以後のソビエトとの関係はスムーズではありません。スターリン時代にフィンランドは大砲の射程距離の地域の割譲を求められ、拒否したために攻撃されます。このためにナチスドイツが勃興すると、ドイツ枢軸国に与し、スターリングラード攻防戦にはドイツ軍に協力することになるのです。これが戦後に響くことは言うまでもない。フィンランドはスウェーデンとも確執を抱えていて、人口530万人の小国としてはスカンジナビア半島やフィンランド湾の複雑な地政学的位置にあったといえるわけです。今回の目的の1つがこのレーニン博物館でした。

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