この一年間、日本大学教職員組合の文理学部支部の支部長をやってきました。この日が次期支部委員会への引継ぎ会で、支部長の役割からは解放されて、ほっと一息。支部長といってもそんなにすごいことはしないので、組合本部や私教連の速報を流したり、組合支部報を編集発行したり、学部執行部との支部交渉を行ったりというぐらいの雑用中心ではあったのですが、この一年ほど、いまどき労働組合とは何なのかは考えさせられました。
組合を賃金闘争に限定してしまうと、大学教員の生活形態はいまやさまざまで、独身者、共働き、子供のいる人・いない人によってまったく要求が異なってしまいます。共働きで子供のいない教員にとっては、賃金をわずかにあげることよりも、研究時間の確保や教育・研究環境の改善が最優先になります。組合に関われば、その時間をさらに削ることになるわけですから、組合には近づきたくない。教員のなかでも大学教員は自分の研究だけを中心に考えたがる人が多いので、組合活動を熱心にやっているなんてのは、物好きか研究者能力の低い人か、ボランティアと見えてしまう。それも仕方ないなと思いつつ、組合は賃金闘争だけではないだろうと思いながら組合の仕事をやっていたわけです。
日大文理は、ぼくが勤め始めた頃は、個人研究室ナシ、個人研究費ナシ、サバティカル制度ナシという状態で、研究機関の環境としては最低ランクだったと思います。それを改善するには、学科単位のなかで主張しても賛同は得られるが、何も変わりない。まだ専任講師でしたから、助教授・専任講師の会に入って、まず学科を越えて教授会に働きかける。ついで組合活動だったのです。いまや昇格のプロセスも明快になり、教授が増えて、准教授・講師という立場の人は以前より少なくなりました。したがって、労働組合が学部や大学に働きかける唯一直接の窓口として存在感を増していったという次第です。
組合をやってあらためて認識させられたことはいろいろありますが、なかでも大学における非正規雇用(いわゆる任期制・年俸制の助手・副手)や嘱託・アルバイト職員の待遇はたっぷり問題をふくんでいます。人件費削減を推進した大学は専任を減らして非正規雇用を増やしてきたのですが、結局、終身雇用ではない自由さを与えるといいながら、残業代ナシにつけこみ、しわ寄せを彼ら彼女らに押しつけてきた、そういう実態がよく見えてきました。この数年、過重労働を強いられた職員がいつのまにか退職して、病気だったらしいという話も何度か聞きました。大学が教育研究を目的とした学者たちの相互扶助の共同体だと思っている人はさすがにいないでしょうが、研究者のエゴと相互不信の方が目立つ組織になっていたのです。
こういうなかで、厄介な事態になったとしても単独で事に当たらなければならないということを覚悟はしなければなりませんが、諸問題を共同で受けることで硬直せずに運営者たちに働きかける。それがかろうじて組合の意味ではないかと思います。簡単にすぐ結果が出るものではありませんが、時間がかかるのは世の中すべてについても言えることです。
ただでさえ狭い研究者の見聞から、大学の組織や機構、労働条件や人間のマネージメントへと発想の切り替えが出来る。これも組合のひとつの効用ではないでしょうか。もちろん、切り替えられないひと、切り替えたくないひともいるでしょう。しかし、ずっとそのままかどうかは分からない。いまは研究者に学問の方向性や新たな組織作りを行う能力が不可欠だというのがぼくの持論です。
200名近くいる文理学部の専任教員で組合員は現在わずかに66名。定年で退職した方もいるので増減の幅は小さいですが、昨年・今年と12名の増加となりました。組合参加は個々それぞれの理由は異なるでしょうが、必要性を認識する声が増えたのではないかとかすかに推測しています。