この週末は日本近代文学会の春季大会。理事になってしまった関係で、土曜日の午前10時から会議。理事会、評議員会、研究発表、総会とつづく。研究発表では伊藤博さんの報告が光る。今日はおとなしくしているつもりだったのだけれど、三浦卓さんの報告後の会場からの質問があまりに抑圧的だったので、思わず介入。あとで総会屋のようだと顰蹙をかってしまった。うーん。
日曜の午後は「環境をめぐる表象と心−近代文学再考−」というシンポジウム。タイトル聞いただけでも何のこっちゃと思う。半年前の理事会のときに、この企画案には疑問を呈し、再検討をお願いしたはずなんだけど、何も伝わってなかったみたいですね。で、結局、「環境文学」「エコクリティシズム」「アフォーダンス」についての勉強会につきあわされたというのが今回。
藤森清さんが企画に抵抗して、近代文学の「風景」の成立と「土地所有」の歴史的変化をとらえ、唯物論的な視角を提供し、ひとり気を吐いたが、それも生かされないまま。終了後の慰労会で思わず企画批判の声をあげてしまいましたが、「エコクリティシズム」「アフォーダンス」にしてもそれをとりあげることはいいけれど、文学研究が何をしてきたかを明確にし相互をつきあわせるなかで新たな思考に導いてくれなければ、あいかわらず外の学問に学ばせていただきましたという姿勢が前に出るばかり。主体と場所、空間、環境との関係性をめぐる研究は、文学研究がさんざんやってきたことではないでしょうか。それを「エコクリティシズム」とか「アフォーダンス」といったフレームで言っていないだけで、むしろ先行する十分な成果をあげてきていたのではないですか。もし、双方をつきあわせるなら、もっと限定した、議論可能な土俵を用意した上で、これまでの文学研究の成果にこの理論のフレームを適用させると何が見え、何が見えなくなるか、細かくやらなければならない。書かれた言葉とその言葉を書き付けた主体とのあいだでどのような相互関係が生じるのか、語り手と語られた言葉とのダイナミックな変化の軌跡をどのように検証できるのか。もし、「アフォーダンス」をめぐる話にするなら、そういう土俵を用意してほしい。リングもルールもつくらずにボクシングあるいはプロレスをやれというのは、不発に終わるストリートファイトみたいなもので、言いっぱなし、やりっぱなしで脱兎のごとく逃げるしかない。それを見せられても全然興奮しないなぁ。