人文研共同研究会で、「いま世田谷区の小中学校で何が起きているか〜教科「日本語」の不思議〜」という発表。これまで下北沢のらぷらすで同教科を考える世田谷区民の会で話してきたことをまとめ、同僚の研究者たちにこの問題を考えることでどのような学問的意味があるかについて検討する。国際化に対応してという前提はあるのだけれど、美しい日本語を身につけることが日本文化を理解することであり、郷土愛や愛国心を育てることになるなど、言語ナショナリズムの錯覚に陥っているとしか思えない。実際、漢詩や論語、短歌俳句を覚えることがコミュニケーション能力の獲得につながるわけもなく、どう見ても「修身」「道徳」の教科書になっている。中学校向けの教科書になると「哲学」「表現」「日本文化」の3分冊となり、それはそれでいいのだけれど個別に見ていくと、「哲学」などさまざまな人たちの著作を教材化するときの改変がいちじるしい。モラルが疑われるような編集のしかたをしている。5族協和という国際化を唱えながら、日本語教育を強制した戦前日本の「満州国」の言語政策と重なるのではないだろうか。名付けて「世田谷=満州国化計画」。ただ、満州の方が日本語プロパーの教育として合理的だったかもしれない。じつは、これはもはや世田谷区がかつての「日本人」たちの住むコミュニティではなくなり、もはや言葉も文化も180度くいちがう異民族化した日本人の居住区域と判断されているために導入されたのではないかと言いたくなるほどだ。