昨日は補講4コマ、今日は大学院の補講1コマ。みんなで今日出海の直木賞受賞作「天皇の帽子」を読んで議論。
夕方から、下北沢で世田谷区の教科「日本語」の学習会。世田谷区が政府の構造特区に申請して許可されたのが、教科「日本語」による教育特区でした。これによって区内の小中学校に教科「日本語」が導入され、小学校では週一時間、中学校では週二時間の授業がなされるようになったんです。最初の三年間はパイロット校によるお試し期間でしたが、今年度から全校に取り入れられました。世田谷区教職員組合の依頼で、その「教科書」に指定された世田谷区教育委員会刊行の「日本語」小学校版3冊と、中学校向けの「教科日本語 哲学」「教科日本語 表現」という2冊を精読(ほんとはこれに「教科日本語 日本文化」というテキストが来るのだが、今年出来るらしく、未刊行)。世田谷区のこの試みについては、当初、マスコミなどにも報道され、好意的に受けとめられていたので、ぼくもそうかなと思っていたのですが、意外にとんでもない問題が見えてきたのです。
まず従来の「国語」という教科は文科省の定めた学習指導要領にあるわけですから、これははずせない。ですから世田谷区では「国語」と「日本語」が併用されている。で、「国語」ではない新たな教科としたために、学習指導要領の制約を受けない。たとえば漢字は使いたい放題。ルビさえつければ問題ない。このため、小学校一年生から、詩歌韻文のたぐいをたっぷりたたきこまれる。1年生の冒頭は山村暮鳥の「風景」(「いちめんのなのはな」とくりかえすあの詩です)に始まって、高啓の漢詩「胡隠君を訪ぬ」、短歌俳句との名のもとに和歌・俳諧がならび、「論語」が堂々と何回も登場する。総合学習の時間を使って設定されており、そのために世田谷区の地名や民話、日本の伝統や文化についてもたっぷり教え、徹底した朗読・暗唱教育が行われているのです。
しかし、小学校一年生に漢詩や論語が要るのでしょうか。教科のポリシーとしては、解釈はしなくていい、とにかく音声として覚えさせる、意味はあとで理解すればいいということなのですが、これは完璧な戦前の教育理念のよみがえりです。一方でコミュニケーション教育と謳ってはいるのですが、どうしてどうして漢詩や論語、和歌俳諧に親しんでも、率直な自己表現や他者理解に結びつかないことは戦前で証明済み。ところがこれを強制導入し、区内の小中学校では教育委員会の指示したカリキュラム通りに授業する以外は許さないという。笑ってしまうのは、指導案も教育委員会から送られてきて、その指示書に従って授業しろというのだが、この指導案がなかなか届かない。毎月、次の教材の指導案が届くのを待ってすぐその授業にとりかからなければならなかったそうで、最近ではとうとう間に合わなかったときもあったそうだ。さて、世田谷区はいったいどうなってしまったんでしょうか。何か事情をご存じの方、情報をご提供ください。
もちろん、ぼく自身は「国語」の教科がいいと思っているわけではありません。「国語」はもっと徹底して改革されるべきです。同時にいま文科省がいいはじめた「ことばの力」の行方に大きな関心を持っています。今後、世田谷区の教科「日本語」については、持続的に検証と分析を行っていきたいと思います。