熱海の家について書きましょう。数年前から大磯、小田原あたりをぶらついて、東京を脱出したときに住む場所を探していたのですが、3年前に熱海にたどりつきました。それから半年、土地を物色して何度も足を運んだ末に、ようやくいまの土地に決定。東京ほどではないですが、さりとて新幹線停車駅。土地の購入でまず小さなローンを組んで、これを2年ほどで完済。その予測の上に立って、新築の計画を立てたのです。いろんな建築会社もあるけれど、まわりはやはりハウスメーカーではなく、建築家に設計を依頼した方がいいと言う。下高井戸のよくいく居酒屋「一風」の主人がほんとうは一級建築士で、そのかたわらに商売をやっているのだけれど、かれに言わせてもメーカーだけには頼むなとのこと。そこでどの建築家にお願いしようかと探していたところで出会ったのが、新進気鋭の川口孝男さんでした。
もともと内井昭蔵建築事務所で仕事をしてきて、北橘村役場とか明治学院大学の建物とか、公共建築を手がけてきたとのことでしたが、独立して今度は個人の家の建築を手がけていくのだという。じつは旧知の詩人川口晴美さんの弟さんにあたり、その紹介でお手製のパンフレットを見て関心を抱いたのです。そこには川口さんが手がけたこれまでの実績の写真とともに「経年劣化」にたえる家を目指すとありました。経年劣化!それこそ望むところです。どんな新築だって、時がたてば古びていく。古びたときにその風合いの変化や褪色がむしろ落ち着いていくような家。それでいてデザインセンスと住み心地のいい家に住みたい。
さっそく川口さんにお会いし、設計に1年、いろいろ予想外の難題があったために1年半をかけて完成したのが、いまの家です。この家の1つのポイントは、眺めやロケーションはいいのだけれど、傾斜地で、難度の高い土地だったことにあります。なにせ土地の平面は道路から7メートルも下がっている。どうしても2階が玄関になるし、それでも地面を盛り上げないと届かない。まして熱海をふくめた東海地区は前から地震対策を迫られるところです。くわえて土地はきれいな四角形ではなく、南側の辺がやや広い台形、それも微妙にくびれたかたちになっているのです。川口さんの案は、この土地に四角形の家を建てるのではなく、南に向けてブーメラン形に角度のついた家にするというものでした。玄関入ってすぐの2階をリビング・ダイニング・キッチンというビッグワンルームにしたのですが、この1つの部屋が真んなかで15度ぐらい曲がっているのです。不思議なこの角度は、しかし、意外な効果を収めました。つまり部屋の左右で、窓の外の眺めが違ってくるのです。四角い部屋であれば、位置の変化によって眺めも異なるのは当然ですが、それは横に移動した変化だけです。わずかではあれ、曲がっているとまっすぐ前を向いているつもりでも、正面の景色が変わります。熱海のように海と山が近い街では、その差によって見える風景が異なるのです。リビングよりにいると、見えるのは熱海港や伊豆の海。ダイニングよりにいると、熱海の街から丘陵、山々の方に少し中心が移動します。こういう発想は建築家でないと浮かびません。1つの部屋がいろいろに楽しめる。川口さんはそんな楽しみを教えてくれたのでした。