この週末に関西大学で日本近代文学会の秋季大会があった。
このところ発表者も多いし、学会イベントしては成功だと思う。今回は関西支部との共催だったが、その支部長は大橋毅彦さん。いま関西学院大に勤めているが、むかし同人雑誌『媒』をやっていた大学院の時からの仲間である。
その大会2日目に出かけるとき、阪急電車に乗っていて、連れが「あ、淀川キリスト教病院!」と声を上げた。崇禅寺駅のすぐそば、窓のすぐ前に淀川キリスト教病院と書かれた建物が過ぎていく。ふとその名前をめぐる記憶がよみがえって、広瀬朱実さんのことを思い出した。彼女は大学院の一年後輩だったが、急性黒肉腫で若くして亡くなった。その彼女が余命いくばくとなって入院したのが、この淀川キリスト教病院のホスピス棟だった。連れは、亡くなる数日前、病室にいる彼女と電話で話をし、ここのホスピス棟に入ることができてよかったと聞いた。名古屋大で、一度は古典文学で修士課程を出た。それでも近代文学への関心が収まらず、東京へ出て、早稲田の大学院に入り直した。だから実際は年上である。二葉亭を研究すると言っていた。名古屋のイントネーションの残る言葉で、好きな作家はだれだと問いつめたら、恥ずかしそうにマヤコフスキーだと語った。いったん話し出すととまらなくなり、学年は上でも年下のわれわれの言動を姉さん風に笑う人だった。私生活については何も語らず、いつも微笑んでいる人だったが、語るに値しない相手と思われていたのかもしれない。ようやく大阪の女子大に就職して、大学人になったところで皮膚癌になり、あっという間に全身に広がったのである。残された論文は、同僚の明里さんが『明治文学と私』(右文書院、1997年)にまとめられた。大学院時代だから、ほんの数年、肩をならべた友人にすぎないのだけれど、ここで再会するとはねぇ。「まだ、あいかわらず研究やっとるんね」という声が聞こえたような気がした。