講談社現代新書で河野至恩さんの「世界の読者に伝えるということ」が出て、著者からさっそく頂戴した。最近の講談社現代新書はほとんど表紙カバーの4分の3をおおうような帯をつけているのだが、その帯には「〈日本〉が世界で読まれるための戦略とは」とあり、「クールジャパンを唱える前に、日本文化の発信に大切なことは、何だろう?アメリカで森鷗外を学んだ著者が、文学と批評から考える」と書かれている。中味を読むと、河野さんの趣旨は後半の一節にあるのだが、講談社は文化商品をめぐる世界へのマーケティング戦略を説いた本のように見せて売ろうということなのだろう。中味はすごくいい本なのに、何だかなあとちょっと悔しくなる。
この本が語っていることを簡単に要約すると2つのことになる。オリジナルの村上春樹テクストと翻訳されたHarukiテクストはもちろん同一ではない。しかし、そこに絶対的な上下関係もない。それぞれの翻訳言語の文脈に即した複数のテクストが生み出されていると見るべきである。原典に即して読む読み方だけでなく、離れて読む読み方にも可能性がある。それが「世界文学」という考えにつながる。「精読」に対する「遠読」という概念が面白い。もう1つが、アメリカの地域研究の1つとして日本研究の立場に立ったとき、日本の伝統文化や大衆文化、批評はどう見えるかという話題。どうしても日本の独自性を語ろうとして日本中心の思考に陥りがちなところをどうくぐり抜けるかが語られている。文章も平易で読みやすい。ぼく自身はこれからますます異なる文化や言語のあいだの対立や葛藤が強くなるのではないかと危惧しているのだけれど、だからこそ河野さんのような観点が大事なんだと思う。